梅雨も明けて、我が家の庭で蝉が鳴き始めました。
さて、なるほどーをシェアさせて頂きます。
2016年の干支は『 丙申(ひのえ・さる)』です。
これには、
「昨年までの、先が読めない状況が一変して
ハッキリと一つの方向が定まる」
という意味があります。
ひとりひとりの生き方においても
その運の流れにに乗ることが肝心です。
運まかせ、流れまかせ、人まかせの
日和見(ひよりみ)的な生き方ではなく、
自分の道は自分で決める生き方が求められるということ。
さて、世の中の流れとしては
アメリカのトランプ現象や
イギリスのEU離脱問題を受けて
「自国ファースト主義」が強くなっていると叫ばれています。
極端に言えば「自分らさえ良けりゃいい」ってことです。
このような流れが広まったとき、いったい世界はどうなるのでしょう。
日本にも波及するのでしょうか。
人の想念は、
無意識の世界で世界中と繋がっています。
だから、自分ひとりの想念(思うこと、考えること)も
世界の潮流と無関係ではありません。
自分は自分。他人は他人。
人の面倒を見るなんて損するだけ。
恋人も夫婦も、お互いの尊厳を守りながら、ちょうどいい距離感で付き合えたらいいんじゃない?
なんでもビジネスライクに割りきった考えでは、
大事な何かが、失われそうです。
話は変わりますが、
私の自宅の裏は、阿倍野神社なので毎朝お参りします。
しかし、ただお参りといっても
単に「このお経を唱えたらいいですよ」とか
そういった、いわば「形だけ」のものではありません。
祈りとは、形ではなく中身が大切です。
つまり、
その人の「普段の思い」で決まるということ。
日頃、心の中で文句ばっかり言っていて
信仰心も、求道心(ぐどうしん)も忘れているのに
神様の前でだけイイ子ちゃんな言葉を並べたって、通用しません。
人は騙せても、神様の目はごまかせません。
ですから、神様を味方につけられるかどうかは、
日頃の“生き方”次第だということになります。
さて、観音様に守られる生き方って
どういう生き方かご存知ですか?
まず大事なことは
「失敗しても落ち込まない」
これです。
失敗する度に、落ち込んでしまう
ヘコんで、自信をなくしてしまう‥
というのは、ほとんどの人がもつ心理です。
けれど、この「失敗して落ち込む考え方」をやめなければ、
なかなか人生、次のステップに進むことができません。
失敗して落ち込むのは、なにが原因なんだろう?
一度そのように見つめてみると
大きく分けて、2つの原因が見えてきます。
1つは、「落ち込むことが好きだから」。
もう1つは、「成長欲が強すぎるから」です。
まず1つ目の、「落ち込むことが好きだから」について。
「いやいや!落ち込むのが好きな人なんて、いるわけない!」
と思われるかもしれませんが、
「やっぱり私ってダメかも‥」と落ち込んでいる時、
それは、「自分は変わりたくない」という意思表示だったりします。
ある意味それは、今のダメな自分を認めていて
過去の自分を守ろうとする行為なのです。
落ち込んでいる間は、何も考えなくてよくて
思考停止状態でいられるから、そうしている方が「楽」なんです。
自分の殻を破らなくていいから。
「どうせ私なんて‥」というモードでは、自分も、周りも、幸せになれません。
だから、反省は3秒で十分。
自分を責めない。
代わりに、その場で改心する。
失敗して落ち込んだり、卑屈になったり
自分を責めたりしてしまうということは
その裏を返すと
「自分は、もっとデキる人間だと思ってた(そう思いたい)」
という本音が隠れています。
なぜなら
「自分ってヤツは、本当に無力だ」
と心の底から思っていて
「成功したらラッキー!」
「決して、自分の実力じゃない」
「きっと、神様のおかげ」
くらいの謙虚な気持ちでいたら
失敗しても、その力不足は当然のことで
改心こそすれ、後悔には至らないはず。
だから、落ち込んでいる時点で
実はチョット心の中にテングな自分がいた、という証拠です。
いちいち落ち込んでた自分って
なんてゴーマンだったんだ‥、と思えたら
自然と暗い気持ちは消えて、前向きになれます。
そしてもう一つの落ち込む原因
「成長欲が強すぎるから」について。
これは、現代人に多い、一種の病気と言ってもいいかもしれません。
自分はもっと成長しないと幸せになれない
この世の中を渡っていけない‥という
ある種の強迫観念に似た思いから逃れられない「成長病」です。
現代社会からの洗脳ですね、これは。
これに陥ってしまっている人の特長は
自分の損得にやたらと敏感だったり
常に新しいことを学ばないと不安だったり
アレもコレも、むやみに手を出して
結局どれも中途半端で、日常には活かせていなかったり。
こういう「もっと成長しないと‥」という
思いに追い立てられるように、何かを学んでいる人に限って
「結局、どんな自分になりたいの?」
と誰かに聞かれたら、自分でもそのゴールがわからなかったりするのです。
そこに欠けている視点は
「誰かのために」です。
もっと、おいしい料理が作れるようになりたい
もっと、うまく話せるようになりたい
もっと、頭が良くなりたい
もっと、儲けられるようになりたい
もっと、強くなりたい
もっと‥
でもそれって、いったい誰のため‥?
自分を満足させるために成長を求める
‥ではなくて、
はじめから、自分以外の誰かのために
成長を求めている人は、滅多なことでは落ち込みません。
結局のところ、失敗したり、
うまくいかないことがある度に
落ち込んでしまう背後には
「自分ファースト主義」が隠れています。
人の能力が真に全開する時は
自分以外の「誰かのため」に目覚めた時です。
人間の潜在意識の奥にある無意識のパワーも
神様の働きも、その思いがなければ発動しないからです。
ただし、ここで注意が必要なのは
ここでいう「誰か」が
自分の家族とか、恋人とか、友人とか、仲間とか、
身近な人だけに限定されてしまうと
今度は「情」に縛られてしまうことが多い‥。
「情」に縛られて、相手の意見に「ノー」と言えず
自分を押し殺すのは、本当の「誰かのため」とは違います。
「誰かのためにやらなきゃ‥」と
ムリヤリそっち方向にもっていこうとするのも違います。
自己犠牲は、本当の奉仕になりません。
強制ではなく、あくまで心から、
「あの人のために、やってあげたい」
「あの人のことが、放おっておけない」
と、自然に湧き上がる気持ちが本物。
奉仕の心とは、観音様の心そのものです。
観音様とは、本当の姿を隠して
自ら低いところに降りて行き
煩悩に悩む人を救う仏様ですから。
だから、奉仕に目覚めた人は
観音様に好かれると同時に
いずれ、誰かにとっての観音様になります。
しかし、人の心は扱い方を間違えると、知らぬ間に
「他人のことはカンケーないし‥」
「面倒なことには首突っ込みたくない‥」
「怒られたくない‥」
「自分のせいにされたらイヤだし‥」
と、自分ファーストになっていくもの。
じゃあ、それを抜けられる時って
どんな状況でしょう?
「自分がやるしかない!」という
せっぱ詰まった状況に追い詰められた時。
役目を授かったとき。
その、苦しくも、ありがたい状況が
人を奉仕の道へ目覚めさせてくれます。
しかしあいにく、
そんなせっぱ詰まった状況を用意するなんて
人間にできることではありません。
他人の運勢は、操れませんからね。
運命のいたずらが、追い込むのです。
えてして人は、追い詰められなければ
気づけないことや、得られない幸せがあるもの。
ですから、運命のいたずらは、
見方を変えれば、観音様からの愛そのものです。
そのような境遇を用意して
自分ファースト主義を糺(ただ)してくれるのも
また観音様の働きなのです。
* * *
観音様の別称は
観自在菩薩(心の自在性を身につける)
観世音菩薩(心の眼をひらく)。
その功徳を授かり、
2016年後半戦の運気に乗りましょう‼️